瓶詰ブログ

見た目は四十、心は中2

小山田圭吾問題:インタビュー記事の原文を読んで考えたこと

当エントリーはいったん書きあげて公開したのですが、その後様々な意見に触れたり原文を読み直したりして本件に関する考えが多少変化しました。そのため全面改稿して再アップします。

※さらに一部加筆修正しました(2021/7/26)

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以下の私の意見は「インタビュー内容が事実ならば」という前提に基づいています。

念のため書いておきますが、記事が事実だとするならば小山田氏はいじめ(虐待)の加害者であることは間違いないことで、その点は擁護できるものではありません。

 すでに誰もが知っている騒動ですが時間が経ってから読まれることもあるかもしれないので問題の概要をリンクしておきます。

 www.asahi.com

 

概要としてはリンク先の記事の通りでまあひどい話ではあるのですが、今回の炎上の発端そのものに対する疑義が各方面から上がってきています。

例えば吉田豪氏や元『Quick Japan(以下QJ)』編集部の北尾氏は巷で盛んな非難の論調とは違うトーンで当時を振り返っていて、確かになるほどと思う部分もありました。

 

久田将義吉田豪の噂のワイドショー

youtu.be

 

 北尾氏のブログ。ただし期間限定公開とのこと。↓

live.millionyearsbookstore.com

 

私は1995年当時、くだんののQL (Vol.3)を実際に買って読んでいました。たしかに「鬼畜系・悪趣味系」がそこそこの市場を得ていた当時でも結構強いインパクトがあり、今でも強く記憶に残っています。さらにネット上ではその後も小山田圭吾いじめ問題は時々ネット上に浮上していたこともあり何となく「小山田圭吾はヤバい」という感覚のまま20数年間が経っているという現状があります。そんな中で今回の騒動が起こり「ああ小山田圭吾か、まあそうなるよね」と、炎上すること自体はやむを得ないことだと思っていました。

今回、上記吉田氏や北尾氏の発言にあたって再度原文(上述の北尾氏ブログにQJ記事全文のキャプチャ画像あり)を読んでみました。あらためて読んでみると自分の記憶による印象とは異なっている部分もかなりあるというのが正直なところです。もちろんひどい内容であることには変りないのですが。ただとはいえ現状の特にマスメディアやネットの意見――錦の御旗を掲げて小山田氏を叩く論調――の論拠について、再度再検討したほうがよいのではないかという結論に至りました。

原文を再読した上の結論としてはやっぱり小山田氏はいじめ加害者であると思います。形はどうあれ(二次被害が起こらない前提で)何らかの反省なり総括なりの発信との謝罪は必要でしょう。

とはいえ単純に加害者を直ちに糾弾せよ!というのは間違いで、加害者という立ち位置にもグラデーションがあることには留意する必要はあります。いや、彼はもちろんグラデーションに留意したところでやっぱり絶対ダメなんですが、批判するならするでちゃんと根拠を調べたうえで発言しなくてはならない、という姿勢は保ちたいところです。私はあらためて検証した結果「やっぱりダメ」という思いに至りました。

そのため、オリンピック開会式の音楽担当者の辞任は当然だと考えています。いろんな意見はあると思いますがオリンピックのような「多様性と調和」を謳い税金を大量に投下した全世界的なイベントで、子供の時の話とはいえ障害者虐待の過去を持つ人間がセレモニーに関わるのはさすがにアウトとしかいえません。

そして辞任したからといって過去の清算ができたわけでもありません。辞任は単にオリンピック開会式の音楽担当者から降りました、というだけで被害者には何の関係もないです。

上記をはっきりさせたうえで、再読の結果私が気になった、小山田氏を批判する際に気をつけるべき点を以下に記します。 

  • 虐待エピソードの初出である『ロッキング・オン・ジャパン 94年1月号(以下ROJ)』掲載のインタビューで小山田氏がリップサービスで話を盛った、さらに編集部が面白おかしく脚色した可能性がある
  • ROJは元々取材対象の原稿チェックがないことで有名で、小山田氏側が最終確認しないまま世に出た可能性がある
  • 今回の炎上の発端となったブログ(「孤立無援のブログ」)は小山田氏を告発する強い意図で編集されている

小山田圭吾における人間の研究 - 孤立無援のブログ

  • いっぽう北尾氏のブログは小山田氏と当時の編集部を擁護する姿勢で語られている

いじめ紀行を再読して考えたこと 02-90年代には許されていた? | 百万年書房LIVE!

  • 北尾氏のブログはある種ロマンチックというかかなり主観に依っている記述も多い。
  • 北尾氏のブログで「孤立無援のブログ」で引用されていない部分がある、と書いてあった箇所も実際には引用されていた。「孤立無援のブログ」は似たような内容のエントリーが複数あったりするので見落としたのか、それとも意図的なものかは分からない。確かにかなり意図的な編集はされているものの北尾氏の言う「丸ごと削除」されているというのは間違いで引用はされている。
  • 実際のQJの原文にあたるといじめ被害者とは中高まで交流があり(いじめ加害・被害の関係は小学校までで終わっていたという)、小山田氏視点では高校卒業まで良好な関係ではあった。ただ、それが対等な関係だったかどうかはちょっと分からない
  • 中高になって小山田氏は被害者である「沢田君」の「ファン」だったと述べているがこの言葉のニュアンスは難しい。単純に好きだったのか、それとも小馬鹿にしたものなのか。おそらくその両方なのではないかと思う
  • 被害者からもらった年賀状をバカにしていた、という批判があるが確かに「(笑)」の文脈で話していたものの文章を読むかぎりではこき下ろすような調子ではなかった
  • 自慰行為強要の件は小山田氏ではなく中学生の時に「限度を知らないタイプ」の先輩が実行したもので、小山田氏は傍観者の立場で「かなりきつかった」と感想を述べている。もちろんいじめ行為の傍観者もいじめに加担している、という見方は正しいが小山田氏も意義を表すのが難しい状況だったのではないか(QJ
  • 「ウンコを食べさせた上でバックドロップ」の件は小山田氏は「アイデア担当」で実行はしていない。まあある意味より悪質とは言える(RJ)
  • 段ボール箱に閉じ込めてガムテープでぐるぐる巻きにして黒板消しの粉をかけた(QJ
  • 体育倉庫のマットに巻いたりジャンピングニーパットをした。太鼓クラブの時期の話と思われるので小学生時代か(QJ
  • 小山田氏は高校生の頃ダウン症児を「皆同じ顔」と揶揄した(QJ
  • 在日コリアンのクラスメイトとのエピソードはあるが、習慣の違いを面白く話してはいた。また「スパイという噂があった(笑)」などとも話しており「人種差別」といえば確かに該当はする
  • もともとはいじめ被害者と小山田氏の対談を企画していたらしいが、当然オファーできずに企画が倒れ、やむなくインタビューになったらしい
  • いじめ被害者へのオファーの様子も描かれているが、この部分はかなり不快。「小山田君とは仲良くやっていると思っていた」と親御さんが言ったということは、被害者家族のなかでは小山田氏は友人として認知していたのかもしれない。それをわざわざ否定しにいったというのは本当に余計なお世話だろう
  • ということはつまり少なくとも高校卒業時には「いじめ被害者・加害者」の関係ではなくちゃんとした交友関係にあったのかもしれないし、単に親御さんがいじめの状況に気づいていなかっただけなのかもしれない。どっちにしても今の状況は被害者の親御さんには本当につらいだろう
  • QJの記事は小山田氏のエピソードを素材としつつ、随所にライターのメタ視点のテキストが差し挟まれる構成になっている。小山田氏のエピソードそのものもさることながら全体の論調はこのメタ部分の記述に大きく左右されている。「いじめってエンターテインメント」などの記述もあり、まさにいじめを消費しようという体での編集だといえる。QJ編集長の釈明文は出ていたが、フェアな論争のためにはこのQJの記事を書いたライター氏の意見も聞く必要がある(まあこれも大きなお世話か)
  • 北尾氏によればこのライター氏もいじめ被害者だったとのことで、この記事が単にいじめを肯定する意図で作られたものではないはずだ、と考えているようだが作者からのコメントがない以上それは何とも言えない。ただ作者の背景というメタ情報がない状態であればやはり内容としては厳しいものがあるし、もっと言えば作者がいじめ被害者だったかどうかというのは記事そのものや小山田氏の行動の評価とは別の問題ではある

繰り返しますが小山田氏がいじめ(障害者への虐待)の加害者だったことは間違いありません。仮に直接実行せず「アイデア担当」だったとしても同様です。むしろタチが悪いともいえます。

吉田氏、北尾氏はともに小山田氏寄りというか、彼を理解しようとする立場での発言であることは否めません。ただ、彼らのブログや動画を見たうえで再度原文を読んでみると、現在の報道やネット言論の状況は特に小山田氏ファンでもない自分から見てもちょっとフェアなやりかたではないと思えるのです。

いや、もちろんそれを以て小山田氏の過去の行為が許されるわけではありません。ただ報道やネット言論の激しさを見る限り、原文にあたらないまま拳を振り上げている人はかなり多いと考えられます。原文を読めば論調自体は変わらないまでもその言葉遣いは少し変わってくるののではないでしょうか(繰り返しますが彼がいじめ(虐待)の加害者だった時期があったことには変わりありません)。特に最後に書いたライターのメタ記述について。この構成によって読者の読み方が誘導されているところが大きいので、ぜひ原文にあたってほしいです。

あまりワイドショーを見ないのでサンプルが少なくて申し訳ないですが、小さな観測範囲での個人的な印象としては「原文を読んだ」というコメンテーターのうち何人が本当にインタビュー全文(切り抜きでない)を読んでいるのかはちょっと疑問を感じます。

小山田氏問題を受けて我々はどうすべきか

今、小山田氏は26年前の発言をもとに断罪されています。インタビューが事実なら非難されて当然ですが、さすがに過剰な中傷も少なくありません。ご子息にまで凸するというのは明らかにおかしいといえます(ただし従兄弟の方の擁護の仕方は最悪だったし、周囲のミュージシャンの対応もどうかと思います。身内にとってはイイ奴なのかもしれないですね)。

我々は小山田氏の直接の被害者ではないので、実際には許す/許さないの土俵には乗っていません。それは被害にあった方が決めればいいことです。小山田氏のTwitterアカウントに批判コメントを並べたところで何も変わらないし、こういうエントリーも突き詰めれば無意味です。憤る気持ちはわかるけれど彼に憎しみをぶつけても世の中は変わらないし、得られるのは空虚な喜びだけでしょう。

過去の虐待が発覚した=こいつは敵だ=我々は敵を叩いてよい=完膚なきまで叩き潰す、という図式。これはまさにいじめや差別の構造と同じです。

とはいえ世の中には小山田氏の過去の加虐行為に近いことをしていながら「俺も昔はやりすぎたよ」的にのうのうと暮らしている人も大勢いるでしょう。そう思うと生贄の羊たる小山田氏と世の加虐者たちとの処遇のギャップにやるせない気分にもなります。

90年代のサブカル市場の受け手として図らずも小山田氏と袖すり合ってしまった身としては、勝手な考えだけど小山田氏には何らかの説明をしてほしいです。もちろん加害者への二次被害の問題もあるので軽率にはできないと思うし、実際に釈明したところで鬼のような非難が殺到するのは間違いないでしょう。それならばせめて、対外的に発信しないまでも内省してほしい。断られるかもしれないけど被害者本人に謝罪してほしい。当事者の間だけのやりとりでいい。いじめ(生徒間の虐待)を本当に悪いことだと思っているなら啓蒙的な社会奉仕とかの形でもいいので何らかのアクションを起こしてほしい。偽善の非難も受けるでしょうが自身の行動を総括することが求められると思います。

そしてこれは当時の未熟な正しさで90年代当時の「悪趣味系」コンテンツを受容していた我々も同様です。若気の至り、ではあるが一度それを言語化して自身の「正しさ」をアップデートしなくてはなりません。もちろんすべての加虐経験者たちも。

僕は今のグローバルポリコレが全て無謬の正しさを持っているとは思っていません。今は我々にこびりついた価値観と度々衝突するけれどそれらも今後徐々に最適化されていくはずです。大袈裟かもしれないけどそうやって人類は進歩してきたのでしょう。日本でもたかだか76年前までは女性に選挙権はなかったし60年代アメリカでは公民権運動も行われたしつい20年前には日本でも駅構内で堂々と煙草を吸っていたりしていたのだから。

SNSが発達した現在、過去の軽率な行動・言動が不意に襲い掛かってくるというケースは小山田氏のような有名人だけでなく今後我々のような一般人にも増えていくでしょう。

炎上などはしないにしても現在のように正しさが高速でアップデートされている世界では「なんであのときこんなことを」的な事例は十分起こりえます。

そういうときに心の平穏を保つために、自身の正しさをメンテナンスすることはグローバルポリコレ時代を生きるために必須の振る舞いになると思います。

 

参考:


www.ohtabooks.com

 

rockinon.com

 

norikazu-miyao.com

 

小山田氏のTwitter その1

Cornelius Info on Twitter: "東京2020オリンピック・パラリンピック大会における楽曲制作への参加につきまして… "

 

小山田氏のTwitter その2 

 Cornelius Info on Twitter: "東京2020オリンピック・パラリンピック大会楽曲制作参加につきまして… "

 

「成功者」になれなかった人のために

まあ色々と矛盾を含んでいるし、今更な話ではあるのですが。

 

最近、子供の教育費や老後の資金などお金のことを考えていた。株やら保険やら投資信託やらのYouTubeばかり見ていたので何だか物凄く疲弊してしまった。

この手の財テク(言い方が古い)動画では「成功者」「経済的自由」などマルチ商法の勧誘でしか聞かないようなワードが連発されるためその度にいろんな思いが心を通り過ぎていき気づくと結構なHPを削られていたりする。

 

そんな動画を見ている時点で自分も当然成功者ではないということになる。今のところ取り立てて困窮してはいないけれど常に薄氷の上を歩いている状況ではあるので、この「成功者」「経済的自由」という言葉にはどうしても焦燥感を煽られてしまう。

 

おそらくそのような言葉遣いをしたほうがYouTubeの再生数が伸びたり、書籍やらセミナーやらへの誘導をしやすくなったりという事情もあるのだろう。だからそれ自体が悪い,やめてくれ、と主張するつもりはない。そういう商売そのものは誰にも止められない。

 

いわゆる「実用的」なコンテンツ、例えば上記のようなお金の話だったり、仕事上のライフハック的な情報だったりはどうしても読者のリテラシーを啓蒙する、という建て付けのもとに発信されることが多い。マネーリテラシーを上げろ、情報のリテラシーを上げろ……などなど。もちろんリテラシーそのものの大切さには異論はない。けれどもその啓蒙の裏には常に広告のインプレッションを稼ぐための仕掛けが発信者の意図を問わず不可避的に内包されており、その仕掛けと渡り合っていくことにどうしても神経を削られてしまうのだ。

 

これは無料でコンテンツを受容するためのコストでもあるので、ある意味では当然のことでもある。このブログにしても、今のところ大したpvもないので自分の収入になる広告は貼っていないけれど、始めるにあたって広告収入のことを全く考えなかった、と言ったら嘘になるし今後何かの間違いでアクセスが急増したらアフィリエイトなりを貼り付けるだろう。

 

そういう意味ではネットvs書籍、別の言い方をすれば無料+広告コンテンツvs買い切りコンテンツの議論は、不毛ではあるものの広告誘導への意図を勘ぐらなくてすむというのは書籍の利点といえるのかもしれない。特にYouTubeはブログ等のテキストコンテンツと比較してこの傾向がより顕著といえるだろう。まあ書籍だからと言って全く商売っ気がないわけでもないので単純に信用はできないけれど。

 

お金のことを考えて情報を探っていたら、他人の商売っ気に当てられてしまったという取り留めのない話でした。

ゆたぼん氏の件で考えた、自由なモンスターとの付き合い方

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すでに旬を過ぎた話題ではあるけれど、炎上ネタを取っ掛かりにして「自由ってなんだろう」みたいなことを考えてみようと思う。YouTuberの話題作りに乗っかるわけではないが何となく心に棘が刺さった気がしたので自分自身のケアのためにも感想をまとめておく。

なお、ゆたぼん氏の意見、主張が本人自身の考えで発せられているものなのか、それとも保護者をはじめとした周囲の大人が言わせているものなのか、そしてそれらがどんな割合でブレンドされているのかは分からない。

以下「ゆたぼん氏」と記す場合は「氏の周囲の大人」も含むということを念頭に置いていただけるとありがたい。

小学生YouTuberの「ゆたぼん」氏が卒業証書を破った動画を上げていて微妙に話題になっていた。

ja.wikipedia.org



私はゆたぼん氏のことはよく知らなかったが、今回は以下のような経緯らしい。

・ゆたぼん氏は小学生YouTuber。登録者数14.2万人(2021年4月)
・ゆたぼん氏は小2くらい?から登校していなかったが6年生になり卒業することに

・髪を染めていることを理由に卒業式には出してもらえず
・学校側がゆたぼん氏のために個別で卒業証書授与式をやってくれることに
・ゆたぼん氏「卒業証書なんて別にほしくないけど来いと言われたので」授与式に参加
・保護者は不参加とのことで、ゆたぼん氏一人で学校へ
・授与式は終始和やかなムード。特に断りもなく(映ってないだけかもしれないが)カメラを回すゆたぼん氏に対しても教師たちは「カメラ持っててあげようか」など優しく接する
・その日は何事もなく終了
・その後、湯田本氏は別の動画をアップ。卒業証書をカメラの前でびりびりと破り、何事もなかったかのようにプレゼントキャンペーンの告知を始める
・卒業証書を破ったことでいろいろ炎上

ゆたぼん氏いわく
「もらったものをどうしようともらった人の勝手。もし自分が誰かにあげたものを捨てられたりしても、自分は何とも思わない。卒業証書を渡した側でももらった側でもない外野が文句を言うな(大意)」*1

…というのが概要となる。まあどうでもいいといえばそれまでの話ではあるのだけれど。

ただ、一つ気になったのが「もらったものをどうしようともらった人の勝手」の部分。まずはこのゆたぼん氏の発言を検討してみる。

ゆたぼん氏側の主張の概要はこんな感じ。

・そもそももらいたくてもらったものではない
・もらったものをどうしようと自分の自由
・もし、自分が誰かにあげたものを捨てられたりしても自分は何とも思わない。もらった人の自由だから。

一方、これに対する批判としては主に以下のようなものが挙げられる。

・卒業証書を破くなんて非常識
・卒業証書を渡してくれた先生の気持ちを考えろ
・そもそも他人からもらったものを蔑ろに扱うとは何事だ

 

 双方の言い分をまとめると以下のようになる。

 

・ゆたぼん氏は自らの自由、自分自身の行動の権利を主張

・批判側は卒業証書を渡した側を慮った常識や道徳、品性を軸にした反論

自分視点の自由・権利の主張に対して、常識・道徳・品性の観点から批判しているという構造だ。なるほど、全くかみ合っていない。*2

 

たしかに、自由や権利の主張は当然許容されるべきだけど、やりすぎるとエゴイズムになってしまう。主張や意見は個人の自由だけれども公序良俗に反した行動や誹謗中傷、ヘイトスピーチが制限されるように、あまりに自己中心的で極端な意見には批判があってしかるべきだ。

この、「自由」を人質にしたエゴイズムというのはなかなか厄介で、これを主張する人は「日本国憲法」だの「民主主義」だのの聞きかじりの言葉をタテにして他人の批判を受け入れようとはしない。
否定と肯定」という映画を少し前に見たのだけれど、こんなシーンがあった。

ja.wikipedia.org


映画はホロコーストを調査しているユダヤアメリカ人の女性学者と、その論敵のイギリス人歴史学者の裁判の行方を描いたもの。イギリス人歴史学者は「ホロコーストは嘘」という歴史修正主義者なのだけれど、その反証のためにユダヤ系女性学者が大変な思いをする、というのが大まかな内容だ。

確かに何を言ったって「表現の自由」ではあるけれどじゃあ歴史を捻じ曲げて自分の都合の良い主張を通していいのかというとこれはNGだろう。

映画の中のユダヤ人女性学者のセリフに「歴史の捏造は表現の自由そのものへの敵対行為」(大意)というものがあり、自由をタテにしたエゴイズムに対する言葉を探していた私ははたと膝を打った。

ちょっと大げさかもしれないけれど、ゆたぼん氏がやっていることは「自由」という万人の権利を都合よくルールハックして自分の利を得ようとする行為だ。言ってみれば「自由」を蔑ろにして脅かす、「自由」の敵のなす所業、とも言える。

ゲームのキャラメイクに例えると、ゆたぼん氏(ゆたぼん氏的な人間、というべきか)はいわば自由にステータスを極振りした状態だといえる。自由に極振りするとエゴイストにクラスチェンジが可能になり「常識・道徳・品性」属性のダメージはまったく通らなくなる(もちろんエゴイストでない自由人もたくさんいる)。

問題なのは、彼を批判する側が「常識・道徳・品性」属性を過信している点だ。旧メガテンのメギドのような万能属性だと誤解しているのか「常識・道徳・品性」が通用しないはずがない、とダメージゼロの表示に気づかずに同じ武器を使い続ける。実際にはメギド無効の特殊属性のモンスターだったりするのにもかかわらず。*3

まあこの手の「自由に生きる」「非常識な成功」みたいなことを謳う人というのはいつの時代も一定数存在していて、これまたいつの世も一定数存在するこの手のルールハッカーに心酔する人々からお金を集めているのだろう。

ゆたぼん氏の動画を見ていたら、N国党の立花氏や元青汁王子、血液クレンジングでお馴染みのはあちゅう氏など錚錚たるメンバーとパーティーをしていたりして、まあ、そういうことなのかと妙に納得したりもしている。

結局、自由へのルールハッカーは会話が通じないモンスターみたいなものなので、正直対処のしようがない。「逃げる」コマンド一択だ。ただ、彼らに道徳属性の武器で戦いを挑む勇者も後を絶たないのでどうしてもその戦いの行く末が気になってしまうのも事実だ。しかし、ここは心を鬼にしてなるべく視界に入れないのが平穏な生活を送るための処世術というものだろう。

 

*1:※その後に「中学校いかない宣言」をして、ひろゆきと小競り合いをしたりするのだけれど今回の話題からは除外する

*2:※これらから派生したゆたぼん氏やその保護者に対する人格攻撃も見られたが、議論に値しないのでここでは扱わない。

*3:メガテンに倣って外道と書こうと思ったけどやめた

マインクラフト 統合版でベータ版からリリース版に戻せない時の対処

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先日、Minecraft統合版のベータ版をプレイした際に起きたトラブルとその解決策を記します。同じような状況の方がいたら何らかの手助けになればと思います。

 

【現象】

ファミリーアカウントでMinecraft統合版のベータ版を導入。

最初、子供のアカウントでベータ版導入に必要となる「XBOX Insider Hub」をインストールし、ベータ版を入れようとしたが年齢制限のため導入できず。

そのため別のPCから親のアカウント(子供のアカウントとファミリー連携している)でXBOX Insider Hubからベータ版に変更。

しばらく親のPCでベータ版で遊び、リリース版に戻したあと、子供用PCで通常のリリース版をプレイしはじめたところ突然アプリケーションが落ち、再度起動した際にはベータ版として立ち上がった。

親のPCでは当然リリース版に戻っている。

子供のPCからベータ版を解除しようとしたがそもそも年齢制限でベータ版を入れられないことになっているため、解除できず。

なぜ突然子供PC上でベータ版になったかは不明。

 

【対策】

いろいろなサイトでベータ版を解除できない際の処置を調べ、以下のように対応。

 

(1)Microsoft Storeのキャッシュを削除

改善されず

 

(2)Windows上に新たにユーザーを作り、そこからMinecraft統合版を再度インストール

改善されず

 

(3)メニューからアンインストールしても残っていると思われるファイルを探し出し、手動で削除

改善されず

 

(4)

上記3つともダメだったので、さらに調べたところ、コマンドプロンプトから削除する方法があるそうなので試す。

ちなみに英語サイトの日本語訳を載せてくださっているサイトに書いてあるコマンドをコピペしたのですがエラーになってしまいました。

そこで、元の英語サイトを調べたところ、日本語訳サイトのほうではコマンドの中に不要なスペースが混じっていたようでした。英語サイト内に記載されていたコマンドをコピー、実行したところ無事リリース版に戻すことができました。

 

news.xbox.com

 

コマンドはこれです(実行は自己責任でお願いします)。

Get-AppxPackage -allusers *minecraftUWP* | remove-appxpackage -allusers

 

親のPCから子供アカウントでMinecraftを立ち上げたときは問題なかったので、おそらく子供PCの中に何らかのデータが残っているのだろうと目星はつけていたのですが、具体的にどのファイルを削除すればよいのかわからない状態でした。

 

一時はPCをクリーンインストールするか、最悪もう1個別アカでマイクラ買うか・・というところまで行っていたので、解決して一安心しました。

 

 

まだ格闘ゲームで消耗してるの? 趣味の最適化 ゲーム編

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四十も半ばに差し掛かり、僕も人並みに人生の残り時間が気になるようになってきた。

仮に70くらいまで元気でいられたとしてもあと25年程。大して時間は残されていない。

そこで人生の可処分時間を何に配分していくか、あらためて考えることにした。
日頃過ごしている時間を仕事とプライベートに大別してみると、アンコントローラブルな事象が多い仕事の時間に比べればプライベートの時間は制御しやすい。まずはそこから考えることにする。

自分の場合はゲームにかなりの時間を使っている。
その時間が有益なものになれば、可処分時間全体の有益さも底上げされるはずだ。

結論としてはいろいろ検討したけど「格ゲー」をやめることにした。

2019年11月に「格ゲーもう少しがんばってみる」と書いたけれど1年ちょっと経って考えが固まり、しばらくは一歩退くことにした。

ちなみに煽り気味のタイトルを付けたけれど、僕は対戦格闘ゲームは高度な知的遊戯だと思っているし、熱心なプレイヤーに対しては世の中の人並み以上に敬意を持っているつもりです。
ただ、あくまでも自分自身の状況や遊びに対する姿勢やと合わなくなってきたのでチューニングをする、という話です。

ではあらためて、格ゲーをやめようと思った理由は以下のとおり。

1 上達に時間がかかる

2 短いタームで高揚と落胆が繰り返されるので疲れる

これらを抽象化すると「自分がコントロールできない領域が大きい行為は疲れるので一線を引く」ということになる。

それぞれの理由を整理します。

1 上達に時間がかかる
理由:
格ゲープレイヤーなら理解できると思うけど
知識のインプットと手捌きの練習の手間が半端ない。

僕がプレイしていた「鉄拳7」というタイトルはキャラクターも技数も多く、
各種フレーム知識と自キャラの動き、コンボ練習、対戦相手のキャラ対策だけで膨大な時間を要してしまう。
少なくとも僕のような手捌きが不器用な人間とっては、自分で思考したことを正確に運用するための修練がとても長くなる。
思考の練度を向上させるのに時間を使うのであれば納得感があるが、自分が苦手な(コントロールしづらい)動作の練習に時間をかけることに徒労感を感じてしまったのだ。

2 短いタームで高揚と落胆が繰り返されるので疲れる
理由:

上記の1とも関連するが
長い時間をかけて練習しても成果に結びついていることを実感しにくいことも疲労の原因の1つだ。

もちろん対戦ゲームなので勝ったり負けたりがあるのは当然で、そこが一番楽しいところなのは理解している。ただ1ゲームの時間が短いので(1分程度で終わることも)感情のアップダウンの頻度が高すぎてものすごく疲弊する。

これは性格なのかもしれないが他人との勝敗というアンコントローラブルな事象に分単位で一喜一憂することに価値を見出せなくなってしまったのだ。

これらが「自分がコントロールできない」の内容になる。
さらに、このように時間をかけて修練してアンコントローラブルな事象を乗り越えてゲームに勝利したときに得られる高揚感。この感覚を持つことがなんだか脳内麻薬に支配されている気がしてしまいどうにもノレなくなってしまった。つまりある種の依存症になっているのを自覚しまったことが格ゲーをやめる理由としては大きい。

負けるとネガティブな気分になり、勝っても支配される感覚を持ってしまう……と自分自身が捉える
ようになってしまった以上、もはや自分から身を引くしかない。

いみじくも過去の自分が得た「格ゲーはパチンコのようなもの」という認識は、少なくとも自分にとっては正しかったのだ。

ただ、繰り返すけれど僕は対戦格闘ゲームを否定したりそのプレイヤーを揶揄するつもりは全くない。物心ついた時からアーケードゲームに親しんでいた者としては格ゲーはやはり「ゲームの華」だし、上で述べた僕にとっての格ゲーのデメリットは、そのまま格ゲーを突き詰めたプレイヤーに対しての称賛の理由になる。

格ゲーやめてから変わったこと(趣味の領域において)としては以下が挙げられる。

・プレイ自体の時間も減り、調べの時間もなくなった。つまり他人との勝敗という不確定なものを得るためのコストが激減した。
・そのかわり、自分自身のみと向き合ってスキルを高めるゲーム(自分の場合はシューティングのクリア実践とか)で遊ぶ時間が増えた

まあゲームに時間を使っていることには変わりないのだけれど「ゲームに費やす時間の最適化」はできた気がする。ゲーム時間そのものをどうするかはまた考える。

いい大人がコミケに行っている場合かどうか考えた

先日、いわゆるコミケコミックマーケット95)に行ってきた。40歳を過ぎての初参加だ。

マンガ・アニメ界隈には多少こだわりというか「オタク系文化を受容しつづけること」をずっと意識してきた自分ではあるけれど、このコミケというイベントには縁がなかった。

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もちろん若いころには周囲の友達に誘われたこともあるし、彼らの「戦利品」を見せてもらったりしたこともある。ただ特にこだわりもなく人混みが面倒くさい程度の理由で実際には足を運んでいなかった。

その一方で僕はコミケに参加した経験がないことがずっと気になっていた。
夏と冬にはテレビのニュースでもごく当たり前に取り上げられるようになったり、周囲でも会社の若い子が普通に参加していたり(中には出展者として参加する女子も)、コミケ周辺の事象はかつてよりも身近に見聞きすることが多くなっている。にもかかわらず「参加したことがない」ことにある種の負い目を感じていたのだ。
マンガ・アニメ界隈の最大の祭りともいえるコミケに行かないまま結構な年齢になってしまった。趣味の本道を通らないままガラパゴス的過ごしてきた時間を昇華させたい、事あるごとにそう思っていたのだ。

そこで、その思いを一気に解消すべく参加することにしたのである。

実際行ってみた結論は一言でいうと「あまり楽しめなかった」ということになる。
もちろん、大して下調べもせず、目当てのサークルがあるわけでもなく数日前に思いつきで行こうと思ったくらいなので(カタログも言い訳程度に当日購入した)、イベント自体に文句を言うつもりは毛頭ない。「楽しみ方が分かっていない」と言われれれば全くそのとおり。あくまでも僕自身の受け止め方の問題だ。
しばらく会場内をあてもなく歩いて心に浮かんだのは「ここは僕の居場所じゃない」という言葉だった。この言葉はいくつかの感情が入り混じった結果発せられている。

一つ目はある種の失望だ。

昼過ぎに会場入りしたせいかもしれないけど、僕が期待していた「濃い」雰囲気はあまりなかった。ある意味ものすごく健全というか、ごく普通に同好の士の集まりが展開されていた(当然なのだけど)。

オタクエリートがひしめくコッテリした空間を想像していたのに、案外普通で小綺麗で、なんというか拍子抜けしてしまったのだ。*1

もう一つは疎外感だ。

しばらく会場内を歩き回ってみたものの、これだ!というコンテンツに巡り会えなかったのだ。

これは開催日のジャンルによるものかもしれないが、ドンピシャにハマりそうな同人誌を見つけることができなかった自分で本を作ってしまうくらいマンガやアニメが好きな人がたくさんいるのに、 僕は結局その場に接点を見つけられなかったというわけだ。

これらの失望と疎外はどこから生まれてきているのだろう。帰路、りんかい線に揺られながら達した結論は「自分がこの界隈においてロートルであることを突きつけられたことへの動揺」だ。

僕はこれまで、現役の趣味人とは言えないまでもそれなりにキャッチアップしてきたつもりだった。まあ趣味への取り組み方なんて人それぞれでコミケ的な楽しみ方だけが正しいというわけではないが(そもそも楽しみ方の多様性こそがコミケのようなインディーズイベントの理念だろう)、この「遅れてきた」感にやはり戸惑いを覚えてしまう。
とはいえ前向きに考えるなら、趣味に関してはうまいことソフトランディングというか良い形で歳をとることができている、といえなくもない。

ちょうどその時読んでいた『「若者」をやめて、「大人」を始める』(熊代 亨)という本にこんな記述があった。

しかし、世間にはいまだに「昔の○○は良かった。だが、いまは面白いコンテンツがない、若い世代は面白いものがわかっていない」などと真顔で言う中年もいます。そのようなことをいう中年の大半は現役の愛好家ではなく、歳をとって趣味生活が維持できなくなった元・愛好家だと思われます。なぜなら、そのように言う人のほとんどは現在のコンテンツについてほとんど知らないし、ほとんど見ていないからです。

引用部分はいわゆる「老害」にならずに趣味の世界でも適切に加齢していくことが大切、という文脈で書かれているものだ。

幸か不幸か、僕の場合は老害になる(なれる)ほど「濃く」はないので若い者に圧をかけたりすることはない(たぶん)。けれども、趣味を楽しみながら適切に年を重ねるというのはちゃんと意識しないと案外難しいのではないか。
ただ、このような年齢に応じた振る舞いを身に着ければ、新たに楽しいことを始める際にも役立つだろう。

年相応の行動と年齢にとらわれないマインド、両者併せ持つことで楽しく過ごせる時間が増えるのではないだろうか。

そうしてポジティブに受け入れるならば、前述の「失望」はむしろコミケ的空間へのアクセスが容易であることの裏返しでもあるし、「疎外」はコミケ的空間が多様性を持っていることから生まれているとも言える。

ということで、次回の夏コミにも行ってみたいと思っている。

次はシューティングゲーム周辺のサークルを見てみて、同好の士からの刺激を受けてみたい。たぶん自分の取り組み方とは異なるものに沢山出会うことになるのだろうけど、同じジャンルでもいろんなアプローチがあっていい。

ただ、コミケ的空間が持っているであろう多様性に気づけたのは加齢ゆえだろう。おそらく自分がもっと若かったら「こいつらとは違うな、俺には関係ないけど」程度で終わっていたかもしれない。「いい大人」になったからこそ見つけることができる価値というものはやはりあるのだろう。加齢バンザイ。

*1:なんだか恋愛に過剰な期待をして肩透かしを食らって落ち込んでる若者と大差がない

格ゲーはバカと暇人のもの、なのか 〜格闘ゲーム雑感

ここ3カ月ほど格闘ゲーム熱が高まっており、ゲーム可処分時間の多くを鉄拳7(PS4)に充てている。

格ゲーというのはとにかく覚えなければならないことが多く、また入力の手捌きそのものの修練も必要で、つまり人並みのプレイができるまでの時間がものすごくかかるタイプのゲームだといえる。

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僕の使用キャラのリリ(ようやく獣段が安定してきたくらい)

さらに厄介なのはそのゲーム性だ。相手の体力を削り倒せば勝ち、仮に体力1ドット差の勝負だとしても負けに温情はない。プレイヤーの技量のみを競うアゴンの究極形態だ。

加えて、最近は(といっても、バーチャ4からだから2001年か*1)段位システムという勝敗そのものとは別のインセンティブも準備されている。少しでも上の段に上がりたいし、馬鹿馬鹿しい話だけど自分より低段位相手だと強者風を吹かしたくもなる。さらにそれで負けたりすると悔しさもひとしおだ。また、セカンドシーズンからは段位スコアの増減が可視化されたことにより、いっそう強く勝敗に一喜一憂することになる。*2

このようなガチ対戦遊戯にインセンティブをプラスするとどうなるか。自己責任で賞罰をトレードしあう世界がそこに生まれる。

きれいな例え方をすると知的ゲームでタイトルを競い合う棋士、殺伐とした例なら褒賞を求めて戦う剣闘士。

ただ、最近気づいたのだけど、案外パチンコ、パチスロのような機械系ギャンブルと通じるものがあるような気がしている。

あるネットラジオに、格ゲーの有名プレイヤーが出演しており、そこでパチンコ・パチスロで金を稼いで、それを資金にゲームに投入する、といったことを話していた。

僕はそこで初めて格ゲープレイヤーとパチンコの親和性に気がついた。

パチンコにおいては間断なく射出される玉の軌道を追いかけ、目まぐるしく回転するリールを凝視し、格ゲーにおいてはフレーム単位で有利不利やダメージのやり取りをする。極短時間の間に抽選を繰り返し(パチンコの場合はそのものの意味で、格ゲーの場合は「相手の行動」という予測しづらい要素に対応すること)、その積み重ねで勝敗が決まる、という観点から見ると(強引だけど)両者の共通部分は小さくない。*3

この発見というか気づきは僕にとってはそこそこショッキングなものだった。

これは個人の感覚なので当然異論はあるだろうけど、僕はこれまでパチンコ的な遊戯をビデオゲームより下に見ていた。なす術もなく射出ハンドルを握ってリーチ演出やリールの表示に一喜一憂するパチンコはゲームとしての豊饒さがない時間潰しの遊戯、身も蓋もない言い方をすればいわゆるDQN的、ヤンキー的な「バカか暇人の遊び」と思っていた。

そんなパチンコと、思考の瞬発力と精緻な操作、その両方を求められる格闘ゲームが一部とはいえ共通項を持っているとは。*4

ただ、だからといって「もう格ゲーやりません」という気持ちにはなっていない。冒頭に書いたように時間的コスパの悪い趣味ではあるけれど*5、その楽しさも間違いのないものだ。

うろおぼえだけど、ナンシー関だったかが「人間はヤンキーとファンシーの2つの要素でできている」みたいなことを言っていたような。その言葉のココロは忘れたけれども、ヤンキー的思考、例えば強くなりたい、目立ちたい、利を得たい、反抗したい*6、威を示したい、認められたい・・・全て人間の行動原理として何の不自然さもないものだ。そして今挙げた欲求全てが格ゲーにも当てはまる。結局はこの世の多くの事象がそうであるように「程度の問題」なのだろう。

だから僕は「ヤンキー的」という理由で格ゲーをやめることはない。そのヤンキー性を受け入れ、気負わず弛まずプレイしていきたい。まあ、前述したようにとにかく時間がかかる遊びなので、入れ込み具合は考えていかなくてはならないけれど、うまいこと楽しんでいきたいと思う。

なんだかよくわからない宣言になってしまったけど、自分が楽しいと思うことは胸を張って楽しむ、それだけのことです。

とりあえず以上雑感、でした。

*1:スト2の1991年から段位システムが生まれるまでが10年、それから今は17年経ってるわけだから段位システムの歴史のほうが長いという事実

*2:鉄拳シリーズの段位システムのよくできている点は、数段ごとにグループ分けされているところだ。ただ段位が上下するだけでなく、例えば「もうすぐ拳段に上がれる」「数字段に落ちた」「獣段ごとき」といった階級間の越えられない壁のようなものがある。人の心をコントロールするには序列と分断が必要という好例だ

*3:囲碁、将棋も相手の行動に対する対処が求められるが、自身の手を打つことについての妨害=不確定要素はない。パチンコと格ゲーは自身の手を完全に実行するまでに運要素が絡む。不確定・不完全情報のゲームはもともとギャンブルとの相性がよいが、パチンコ・格ゲーの場合は抽選ターンの数がべらぼうに多い、というのが共通点ではないだろうか。ちなみに、同じビデオゲームでも対人でない=不確定要素が少ないアクションやシューティングの場合は事情が異なる

*4:もちろん類型に分類していけばどんなものにでもどこかに共通点はあるのだろうけど

*5:趣味とコスパの問題はあらためて考えたい

*6:「反抗したい」というのは僕にとっては「ゲームごとき」を好きと表明するというある種のROCK精神でもある